是秀の歌は2つの真逆の心情に解釈できる!
二代目 千代鶴貞秀(神吉岩雄)作の鉋で、是秀が詠んだ歌が刻まれているものがあります。「山彦は むかしの夢か 今の世は 己の声を 今朝に聞く」というもの。実は私、この歌の解釈に頭を悩ませています。というのは、2つの真逆の心情に解釈できてしまうから。
1つ目は、「山びこは、木霊(こだま)が返すというのは昔のファンタジーか。今の世で、今朝私が聞いたのは、確かに自分の声だ」。こう意訳すると、山びこは木の精霊のしわざではなく、自分が発したもの。つまり今の自分の地位は、降って湧いたように天から与えられたのではなく、自身の鍛練によって得るべくして得たのだ。という自信と誇りの表れの歌。
ところが2つ目は、「山びこのように自分の声がすぐ返ってくるのは、昔の夢のような話か。今は自分が発した声なのに、すぐではなく今朝になってようやく聞いた」。つまり昔とは変わってしまった今のままならない世情、あるいは自身の老いなどを憂う歌とも解釈できるのです。
是秀がどういう思いでこの歌を詠み、どういう思いで貞秀が自作の鉋に刻んだのか……。残念ながら素人の私にはわかりかねますが、彼らと同じく職人の険しい道を歩む皆さん方には、自然と感じるものがあるのではないかと思います。
他にも是秀は、「目をとじて 心明るき 神の前」という書も残しています。このように神を尊ぶ是秀の在り方からすると、前述した1つ目の解釈は少々不遜。ですから、1ではないような気もしてきます。
もしこれらの歌を詠んだ年齢、時代背景などがわかれば、真意を読み取ることができるかも知れません。いずれにせよ歌を詠むというのは、自分が感じたことを言葉にして残したい、あるいはそれを誰かに伝えたい、という感情から。
そう考えると短歌や俳句に限らず、Twitterも140字の定型詩。喜びや憂いなど溢れてくる気持ちを、自分のため誰かのために記録し発信する。もし千代鶴是秀が生きていたとしたら、どんなツイートをしたでしょうか。