労働対価云々となるのは相手の人柄もある!?
建築職人など、ものづくりで生計を立てている人間が、必ずといっていいほど遭遇する問題があります。それは「ちょっとお願いしたいんだけど」。こちらがその道のプロだと知っている知人が、専門的な作業を無償で頼んでくることです。
例えば内装職人だったら、洗面所の床のへこみをちょっと直してほしいとか、建具の立て付けを調整してほしいとか。私の場合だと、LPの文章だけちょこっと作ってほしいとか。
頼む方にしたら“自分にはできないけど、プロだったら朝飯前のはず。業者に頼んでお金を払うレベルじゃないから、知人にタダでやってもらおう”なのでしょう。
でも、ものづくりのプロというのは、専門的な技術・知識を得るために何年何十年も経験を積み学び続け、それでようやく生活の糧を得ている人たち。その辺のことは少し考えればわかることなのですが、考えないんですよね、これが(笑)
だからといって、その分の労働対価を求めたり、できるのに断ったとなると、非常に気まずい!挙句、がめついかのように言われたら、軽く病みます。往々にして頼む方は悪気がなく気軽で、頼まれてやってあげる方が忖度するという理不尽さ……。
結局、お金を請求しても作業を断ってもタダで引き受けても、どうせモヤモヤするのだから引き受けるか、ということになってしまうかと思います。
ならばこの問題は、素人側の認識が甘いから起きるのかというと、そうとばかりは言えません。実はやらかしているんですよ、プロ側も。
同業者のちょっとした手伝いだったりすると、「今回はタダでいいですから、次回お願いしますね」みたいな。つまり、ここで恩を売っておいて次につなげようという計算。
でもこういう場合ってイレギュラーですから、大概次はないんですよね。あったとしても、困ったときの〇〇さん扱い。
このように、自分で自分の労働力・スキルを軽んじる行いを、プロ側もしていたりします。だから本当は、知人のお願いにモヤモヤするのはおかしな話なのかも知れません。
実は今回このテーマを選んだ背景には、「大黒柱に刻まれた家族の百年 塩野米松(草思社)」という本の「百年は持つ俺の建てた木造の家」という大工の話がありました。それは、昭和40年頃に住み込みで大工修行をはじめた職人のエピソード。
修行を終え独立して自分の家を建てていた頃、親方が請けた建物の工期が間に合わないというので、無理を押して手伝いにいった大工。自分の方も人手が足りない状態なので、今回手伝いにいく手間代はいらないから、かわりに人数で返してほしい。と親方に言ったのだそう。
ところが親方は、人手ではなくきっちりお金を払ってきた。それだけが原因ではないだろうが、それ以来親方とは疎遠になった。という話を読んだからです。15歳16歳くらいの弟子を十数年かけて一人前の大工に育てたというのは、自身のDNAを継がせたのと同じこと。
その弟子に、お金(技術力)と人手の交換条件をだされた親方は、ガッカリしたのではないでしょうか……。もちろんそれは、私の主観でしかありませんが。
話を戻しまして。そもそもは、皆が皆もし自分が逆の立場で、こう言われたらどう思うだろうと想像すればいいだけの話。でもそれが単純だけど難しいから、こうなってしまうのでしょう。それに本当にその人の役に立ちたい、喜ぶ顔がみたいと思える相手ならば、労働対価云々ではなく進んでやらせてもらいます。
要するに、この問題のバックグラウンドにあるのは、労働対価とか職人のプライドとかより、頼んできた人の人柄・人間性にあるのかも知れないですね。だって、プロの職人である前に、人ですから。