伝説の彫刻職人【左甚五郎】は架空の人物?真相を探ってみました!

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島崎藤村の詩で有名な「葡萄に栗鼠」は……

建築彫刻のことはよくわからなくても、左甚五郎(ひだりじんごろう)という名前は聞いたことがあるのではないでしょうか。左甚五郎とは、宮大工・禁裏大工の棟梁であり、優れた彫刻職人でもありました。彼の彫る生き物たちには生気があり、夜になると動き出したとの説話があるほど。

日光東照宮の「眠り猫」、上野東照宮の「昇り龍 降り龍」、久能山東照宮の「神馬」、紀州東照宮の「緋鯉 真鯉」などが左甚五郎作といわれるもの。他にも全国各地に100近くの作品が存在するとされていますので、一度は目にしているかも知れません。

江戸初期に活躍し、慶安年間に50代後半で亡くなったとされる左甚五郎。ですが江戸後期につくられたものにも、左甚五郎作があったりします。だとしたら、270歳とかになっちゃいますが(汗)
また、それとは反対のパターンもあったり。

例えば、伊達政宗の命によってつくられた宮城県松島の瑞巌寺。ここの御成玄関に彫られた「葡萄に栗鼠(ぶどうにきねずみ)」は、左甚五郎作といわれています。葡萄に栗鼠といえば、島崎藤村がこの彫刻をみて「舟路も遠し瑞巌寺……(中略)こひしきやなぞ甚五郎」という詩をよんだことで有名。

ですが瑞巌寺は慶長9年(1604年)に着工し、慶長14年(1609年)に竣工。この頃左甚五郎はまだ10歳~15歳くらい。しかも彼が、京都伏見の禁裏大工に弟子入りしたのが慶長11年(1606年)、12歳頃とされていますから、それで葡萄に栗鼠を彫ったというのには少々ムリがあります。

これに関しては、工事に召集された紀州の名匠「刑部左衛門国次(おさかべさえもんくにつぐ)」の作品ではないかとの説が有力。つまりあまりに優れた彫刻だったため、後に“かの有名な左甚五郎が彫ったに違いない”ということになったのでしょう。

講談や落語などで、酒好きでだらしないが、職人としては天才。左腕1本で、権力者の鼻を明かす名品をつくりだす庶民のヒーロー。という、魅力的なキャラ設定で描かれた演目が大ブームになったことが根っこにあるようです。

ちなみに講談では、“腕の良さをねたまれて右腕を切り落とされたから左甚五郎”。ですが“左利きだから”という説や、“天皇に号として左を名乗ることが許されたから”という説もあったりします。左上右下の時代背景をかんがみると、「左」が号というのもうなずけますね。

考えてみれば、江戸初期に全国各地を巡って100近くの作品を残したというのも超人すぎる話。ドカコックだって、そこまでの土木現場を巡るのはキツイはずですよ(笑)

とどのつまり、伝説の彫刻職人左甚五郎は、1594年頃~1651年頃、確かに存在した。しかし100近くもの作品は残しておらず、それは講談などのフィクションに便乗したもの。もしくは、たぐいまれな名品あるいは名匠たちの「代名詞」として、左甚五郎を広く使っていた、というパターン。なりすまし、とかじゃなくて。

いずれにせよ、原作が素晴らしかったがゆえに、二次創作物化したというのに近い感じ!?それを知った上で、左甚五郎作品を鑑賞してみるのも一興かと思いますが、いかがでしょうか。

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